海を渡った水芸 -20世紀初頭における吉田菊五郎のアジア巡業と影響

日本奇術協会の発行する機関誌『Newワン・ツー・スリー』に連載している「奇術史研究ノート」から、2024年6月発行の第13号に「海を渡った水芸 -20世紀初頭における吉田菊五郎のアジア巡業と影響」と題して掲載した記事の冒頭4ページを紹介します。本編は12ページ、誌面では貴重な演技写真を含む図版も多数掲載しています。続きに興味を持っていただいた方、購入を希望される方は、日本奇術協会著者まで直接ご連絡ください。

幕末以降、多くの日本人芸人(とその優れた芸)はオリエンタルな魅力を纏った「商品」として海外へ「輸出」されていった。例えば日本人で初めて旅券(パスポート)を取得したのが奇術師・隅田川浪五郎ら芸人集団だったことは外務省の公式サイトでも紹介されている。[1] 彼ら/彼女ら芸人たちがどの場所を巡り、また現地でどのような評価を受けたのかは多くの先行研究が明らかにしたとおりである。現在ではこうしたデラシネ的でコスモポリタンな芸人たちの生き様を文化論的に捉え、移民や戦争、社会学などとのつながりで論じる研究も増えている。

しかしながら、いずれもヨーロッパとアメリカでの動向が中心であり、それ以外の地域について一次資料を交えて検討した研究は多くない。朝鮮や台湾、満州など日本の「外地」とされた地域を除くとさらに少なく、管見の限りでは三原文「奇術師ドクター・リンの来日公演−環太平洋圏劇団興行ネットワークの視点から−」[2]、森下洋平「奇術師・福岡天一の足跡 南米ブラジルにおける「日本人移民」奇術史」[3]、同「海外に雄飛した日本人奇術師」[4]、あるいはブラジルの新聞社「ニッケイ新聞」がシリーズで連載した「サーカスに見る日伯交流史」[5] などがある程度である。

そこで本稿は戦前のアジアにおける奇術師興行の模様を検討してみたい。具体的には20世紀初頭の大阪の奇術師・吉田菊五郎とその一座を取り上げ、新聞資料が残るシンガポール、マレーシア、インドネシア、香港での活動を見ていく。

本稿で明らかにした吉田菊五郎とその一座の興行ルート(一部)
本稿で明らかにした吉田菊五郎とその一座の興行ルート(一部)

[1] 外務省 外交史料 Q&Aその他 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_01.html
[2] 芸能史研究会『芸能史研究 第170号』2005年
[3] サーカス学会『サーカス学 2号』2021年
[4] 河合勝、長野栄俊、森下洋平『近代日本奇術文化史』2020年、東京堂出版
[5] ニッケイ新聞 https://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160206-71colonia.html

芸人のアジア渡航前史

最初に、幕末から明治にかけて海を渡った日本人について情報を整理しておきたい。

鎖国が終結して各地の港が開かれ一般の日本人が海外渡航できるようになったのは1866年(慶応2年)のことである。この頃、海外渡航者に下された「旅券」の記録を見ると、軽業や曲芸、奇術といった「興行」を理由に出国するケースが多いことがわかる。1866〜1867年にかけて幕府が発給した旅券は少なくとも311人だが、そのうち4割に当たる140人以上が芸人とその関係者であった。[6]

本稿で取り上げるアジア地域に目を向けてみよう。1914年までに東南アジア(当時は「南洋」と呼ばれた)へ移住した日本人は75955人を数えるが、その中には芸能を生業とする人々も少なからず含まれている。例えば1888年におけるフィリピン・マニラの在留日本人全35人の内訳は公務2人、領事2人、商用4人、軽業師12人、水夫15人である。「軽業」とはアクロバット(足でハシゴや子どもを回転させ高く蹴り上げる足芸、綱渡りなど)のことで、実に芸人が3分の1を占めていたことがわかる。ここには「明治6年頃渡比した大阪の手品師」もいたという証言もある。[7] また1910年、タイ・バンコクの在留日本人を調査した名簿には職業欄に「奇術師」と記入された男女2人がおり、おそらく夫婦だろう。[8]

当時のアジア諸国はほとんどが帝国主義の拡張政策に伴う西洋国家の植民地だった。フィリピンはアメリカ、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランス、マレー、シンガポール、ボルネオ、インドはイギリス、インドネシアはオランダが統治下に置いており、各主要都市には宗主国から派遣された政治家や軍人、同伴する家族、ビジネスマンなど多くの西洋人が暮らしていた。人が集まる場所に娯楽が求められるのは世の常で、都市には近代的な劇場が立ち並び、日本人芸人はこうした場所を巡って興行していたと考えられる。

これはイギリスの植民地だった中国の上海や香港も同様で、急速に国際貿易都市として発展すると日本人をはじめ各国大使館の人々が行き交った。劇場にはヨーロッパからも多くのサーカス団や奇術師が訪れ、日本人奇術師ではジャグラー操一や松旭斎天一、天勝らも訪れたことがわかっている。

また上海、香港、東南アジアは日本からインド洋を経てヨーロッパへ渡るための航路(欧州航路)の重要な寄港地でもあった。[9]

[6] 河合勝、長野栄俊、森下洋平『近代日本奇術文化史』2020年、東京堂出版
[7] 吉川洋子、米領下マニラの初期日本人商業,1898-1920-田川森太郎の南方関与『東南アジア研究18(3)』1980年
[8] 「46.磐谷」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B13080326900、海外在留本邦人職業別人口調査一件 第八巻(7-1-5-4_008)(外務省外交史料館)
[9] 三原文『日本人登場 西洋劇場で演じられた江戸の見世物』2008年、松柏社

吉田菊五郎と水芸

本稿で取り上げる「吉田菊五郎」という奇術師は幕末明治から戦後にかけて大阪を中心に活動し、親子三代が名乗った。東京で主流だった日本手品の流派(鈴川や養老)が1920年代頃までに衰退してしまったことを考えるとここまで長く活動を続けたのは珍しい。「水芸元祖」を自称して芝居仕立ての水芸を得意としたことで知られる。[10]

初代(1836〜1923)は元来大阪の「極道坊主」だったところを奇術師に転向、初め吉田菊丸を名乗った。[11] 1886年頃に歌舞伎役者の五代目尾上菊五郎に水芸を伝授した縁で「菊五郎」の名を授かったと伝わるが、果たしてこれが事実かどうか記録は残されていない。ちなみに二代目によると1877年頃に渡米したという。この時期は多くの日本人芸人(奇術、軽業、曲芸など)が数名から数十名の混成一座を作って欧米で興行している。例えば同時期に帝国日本人一座(Imperial Japanese Troupe)やグレート・ドランゴン一座、江戸ロイヤル日本人一座(Yeddo Royal Japanese Troupe)などがおり、奇術師も参加していた。ここに菊丸も参加していた可能性は否定できない。

二代目(1868〜1939?)は初め小菊丸、次に菊丸の名を経て1900年頃までに菊五郎を襲名した。大掛かりな演目を得意とし、本稿で取り上げるのはこの二代目の海外巡業である。

菊五郎一座の出演広告(「朝鮮新聞」1920年12月2日より)

三代目(1889〜1965頃)は菊丸を経て1935年に菊五郎を襲名。戦後も日本手品をテレビや舞台で披露し続け、写真や映像にも記録されている。1963年5月には奇術研究家の平岩白風が舞台構成を担当した公演「これが日本の奇術だ」(東横劇場)に70歳を超えて出演、松旭斎天勝(二代目)、帰天斎正一(三代目)、一徳斎美蝶らと共演している。

自宅でくつろぐ三代目の吉田菊五郎(『アサヒグラフ』1950年3月1日号より)
自宅でくつろぐ三代目の吉田菊五郎(『アサヒグラフ』1950年3月1日号より)

1934年、記者の質問に答える形で二代目が語ったところによると、菊五郎の芸は「奇術と早替りと水芸の三つ」なのだという。[12] 三代が演じ続け「元祖」「宗家」を自称するほどお家芸だった「水芸」は舞台上で水をあちこちから噴き上げさせる日本の伝統的な奇術演目である。[13] 現代の我々からすれば「奇術」の範疇に入れてしまいがちな「水芸」を、「早替り」と共に独立して扱っているのは興味深い。

菊五郎の水芸は早変わりや花火、宙乗りなどを取り入れた派手なもので、特に怪談ものの演出で人気を博した。二代目は「有馬の猫化け」「天竺徳兵衛」「四谷怪談」など歌舞伎になるような伝統的主題の筋立てを取り入れており、関西大学講師などを務めた尾上金城は雑誌「上方」誌上でこう評している。[14]

舞台の前の小一(舞台のスグ下)を二桝程潰して水を張つた池に蓮の葉(之れがネタ)を浮かせてある。裃姿で傘をさして此の池の中から四方八方の噴水と共にセリ上がつて来る。

此の外作事で海女に扮し池へ飛び込むと、スグ花道から水に溺れた海女の姿で舞台へ現はれると云ふ妙技で、之は他に真似が出来ないから菊五郎独特のものであつた

歌舞伎のケレン(外連、観客を驚かすことを目的にした仕掛け)のような味わいのあるスケールの大きな芸だったようだ。二代目自身もその水芸の演出を語っており、やや長いが引用する。[15]

やはり有馬の猫化け、天竺徳兵衛四谷怪談といつた芝居物でごわす、これは奇術と水芸応用のお芝居で、背景もせりふもすべてお芝居通りで行き、たゞところどころ奇術を芝居の中へ織り込みトドのつまり幕切れに水芸を見せる行き方でごわす、たとへば天竺徳兵衛なら蟇がつゞらから飛び出す手品を見せ、幕切れには大百日で四天姿の天竺徳兵衛が舞台の前にこしらへた水溜へザブン!と水煙を立てゝ飛込む、と同時に水溜の周囲から幾百本の細い噴水がシユーツと見事に吹上る、すると今飛込んだ水溜の中から早替りで天竺徳兵衛に扮してた手前が一滴の水濡れもなくガラリ裃姿に変つて悠々とせり上つて来るんでごわす

そのほか、水芸だけ見せるものは背景なしで後に黒幕を張る、これはお客様の目を瞞着するためではごわせん、後の黒いほうが水が美しく見えるからでごわす、その前で裃衣裳の手前が下座のチンチリトチンの千鳥やテンツツテンの手まり唄の賑やかな囃子につれて、扇子の先や、湯呑茶碗や、刀の刃先や、花瓶などから盛んに玉と散り水晶と結ぶ清水を吹き上らせる、最後に後の黒幕を切つて落すと、天女姿の美しい女が四五人も宙吊りで出て来て、手に手に持つた花束から一斉に噴水の天女散華をやる、舞台面も前後左右に仕掛けた数百本のゴム管からシユーツとばかりに水しぶきが入り乱れて吹き上る、なほその上、別に五色の花火を一緒に仕掛けておいて舞台総水芸と同時に、この花火に点火する、幾十條の水玉と火玉が入り乱れてソレア美しいうちに、まーーづ今晩はこれまでと頭取が出て幕になるのでごわした

同時代には中村一登久、松旭斎天一など水芸を演じた奇術師は他にもいたが、ここまで派手な演出と怪談仕立てや宙乗り、早変わりなどを取り入れたケースはなく、「水芸元祖」を自認する吉田菊五郎の独自性が際立っている。

[10] 河合勝、長野栄俊、森下洋平『近代日本奇術文化史』2020年、東京堂出版
[11] 山口廣一、吉田菊五郎水芸の話『上方43号』1934年、上方郷土研究会
[12] 山口廣一、吉田菊五郎水芸の話『上方43号』1934年、上方郷土研究会
[13] 河合勝、長野栄俊『日本奇術文化史』2017年、東京堂出版
[14] 尾上金城、明治時代の大衆娯楽界『上方(149)』1943年、上方郷土研究会
[15] 山口廣一、吉田菊五郎水芸の話『上方43号』1934年、上方郷土研究会

二代目の海外巡業

二代目の菊五郎は1907年12月、神戸港から加賀丸に乗り込んで海外巡業に出発した。その出発の様子は12月19日の大阪毎日新聞、12月20日の大阪朝日新聞に記されている。

二代目吉田菊五郎の洋行
水芸奇術早替りを以て其名を知られたる吉田菊五郎は、今回、当地山田貞次郎氏の希望にて、一行十数名は来る二十日神戸出港加賀丸に乗込み、新嘉坡に赴き、夫れより印度を経て欧米各国に於て約二年間の予定を以て日本奇術を興行する傍ら、大に技術を研究する由なるが、帰朝の後は当地に於て花々敷く開場するとの事なり

水芸師二代目菊五郎は今度一行二十余名を率ひ、欧米各国巡業を思ひたちたれば、一昨日南船場阪栄楼に留別宴を開きたるが、最近の便船にてまづ上海まで出向くといふ

1907年11月のパスポート発給記録には大阪市北区大工町在住で39歳の「吉田芳松」(菊五郎の本名)、その子として18歳男子(三代目の菊五郎か)と15歳女子、他の座員を含め総勢10名が載っており、行き先は「香港及印度」、渡航目的は「遊芸稼業」(海外でのパフォーマンス)である。全員がマジシャンではなくは音曲や踊りを担当する者も含まれていたと思われる。

乗船した「加賀丸」は日本郵船が欧州航路に就航させていた商船で、当時の欧州航路は日本からロンドンまでおよそ40日間を要したと言う。神戸出港後の主要な寄港地は(時代によって多少の違いはあるが)、門司、上海(中国)、基隆(台湾)、香港(中国)、シンガポール、ペナン(マレーシア)、コロンボ(スリランカ)、アデン(イエメン)、スエズ(エジプト)、ポートサイド(エジプト)、ナポリ(イタリア)、マルセイユ(フランス)、ジブラルタ、ロンドン(イギリス)だった。[16]

菊五郎一座が乗船した日本郵船の「加賀丸」(個人蔵)

菊五郎一座も概ねこの旅程を辿ったと思われるものの、商船を利用する他の乗客が「移動」のために乗り合わせたのに対し、菊五郎一座は途中で下船しては一定期間を現地に留まって舞台に立つ「興行」が目的であった。時には寄港地から内陸に進むこともあったかもしれない。したがって40日間の欧州航路を時刻表通りに進んだとは考えにくく、果たしてその動向が最初に確認できるのは1908年4月4日の香港であり、およそ4ヶ月間どこで何をしていたか判然としない。神戸を出た後の上海や基隆でも興行していたと思われるが、今回は確定的資料を見つけることができなかった。今回は確実な動向が掴める香港興行の模様から見ていこう。

菊五郎一座の香港初登場を伝える記事(「The Hong Kong Daily Press」1908年4月8日より)

[16] 『渡欧案内 改訂2版』1936年、日本郵船船客課

続きは『Newワン・ツー・スリー』第13号をご参照ください。
記事はこの後、各国の新聞などに掲載された菊五郎一座の詳細なプログラム、そして現地の素直な反応、この巡業が菊五郎にどんな影響を与えその後の舞台人生に繋がっていったのか……等々を取り上げます。
本編は12ページ、誌面では貴重な演技写真を含む図版も多数掲載しています。お問い合わせは日本奇術協会著者まで直接ご連絡ください。