マジシャンとテレビのメディア史 -1950年代のマジック番組に見る「多様化」の歴史

日本奇術協会の発行する機関誌『Newワン・ツー・スリー』に連載している「奇術史研究ノート」から、2024年3月発行の第12号に「マジシャンとテレビのメディア史」と題して掲載した記事の冒頭3ページ(本編は12ページ)を紹介します。続きに興味を持っていただいた方、購入を希望される方は、日本奇術協会著者まで直接ご連絡ください。

昨年(2023年)は日本のテレビ放送が始まって70年の節目の年だった。それはつまり、マジシャンがテレビ番組に初めて出演から70年が経ったということでもある。冒頭の写真は、1950〜60年代のテレビ番組を撮影したものだ。写っているのはマジシャンで、撮影者はアマチュアのマジックマニアである。ブラウン管テレビをカメラで撮影している。自身が出演しているわけではないのに、いったいなぜ撮影を?今回はその背景をきっかけに、マジシャンとテレビの関係性について考えてみたい。

テレビ放送の始まりとマジック -演芸を「聴く」から「見る」へ-

冒頭の問いに対して、「マジシャンがテレビに出るのが珍しいから撮ったのでは?」という想像が浮かぶだろう。ところが、テレビ放送の開始当初からマジシャンがテレビに出るのは(多くはないが)珍しいことでもなかった。

日本におけるテレビ本放送は1953年2月1日のNHK(日本放送協会)で始まったが、NHKでは2月から12月までほとんど毎月、何らかの形でマジックが登場しているのである。NHKにおけるマジシャンの最初の出演は1953年2月18日午後6時30分から放送された30分番組「子供の時間ニコニコ通信」で、松旭斎天洋が物真似の岡田六郎と共演している。1953年に放送された番組には他にもお喋りマジックで人気のアダチ龍光、中国手品の吉慶堂李彩らがおり、マジックや演芸のオールドファンならピンとくる名人ばかりである。同じ年に開局した日本テレビでも金曜お昼は「テレビ・カーニバル」という番組でマジックや曲芸を見せていた。[1]

1953年のNHKにおけるマジシャン出演番組[2]
放送日 放送時間 番組名 出演したマジシャン
1953年2月18日 18:30-19:00 子供の時間 ニコニコ通信 松旭斎天洋
1953年2月28日 18:30-19:00 子供の時間 テンテンテレビ劇場 柳沢よしたね
1953年3月19日 12:20-12:50 演芸 奇術教室 松旭斎天洋
1953年3月26日 12:20-12:50 演芸 奇術教室 松旭斎天洋
1953年3月29日 12:20-13:15 テレビ素人オール自慢 ―天狗道場― 長谷川智
1953年4月6日 12:20-12:50 演芸 吉慶堂李彩
1953年4月12日 12:20-13:00 テレビ素人オール自慢 ―天狗道場― 青木東正
1953年5月5日 19:30-20:30 バラエティ(子供の日特集) 二代目松旭斎天勝
1953年5月14日 18:30-19:00 子供の時間 インドの手品つかい 柳沢よしたね、子供マジッククラブ
1953年6月29日 12:20-12:50 演芸 中道天寿
1953年7月25日 16:00-18:00 名人会 アダチ龍光
1953年8月10日 20:35-20:55 話のカレンダー 奇術の話(1) 安部元章
1953年8月11日 20:35-20:55 話のカレンダー 奇術の話(2) 安部元章
1953年10月8日 12:20-12:50 演芸 松旭斎小菊、松旭斎ゝ雷
1953年11月3日 18:30-19:00 劇「ともにこの道この歌を」 柳沢よしたね

[1] X 高野光平 Kono Kohei:https://twitter.com/Kohei_Kono/status/1723618675746640131(2024年1月29日閲覧)
[2] NHKクロニクル(https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/)を元に作成

初期テレビ放送におけるマジック人気

テレビ放送開始からわずか3年後の1956年、豊富なテレビ出演経験を持つアマチュアマジシャンの安部元章は活況を呈するマジック番組について奇術専門誌『奇術研究』創刊号にこう記している。

今年は元日から七日までの間に、プロとアマとによる手品が三つの放送局から七回電波に乗って流れていました。一日に一回の割合です。テレビと手品はまことに縁の深いものとなって、今では毎週手品の放送が一つや二つ行われていないことはない現状です。われわれ素人の間に、手品熱がこんなにまで高まった時代は以前にはなかったことで、今後ますます普及盛行を見ることと思われますが、テレビも一段とこれに拍車をかけることとなるでしょう。

では、どうしてマジックがテレビ番組に起用されたのか。その答えは「マジックが目で見る芸だから」に尽きるだろう。

初期のテレビ番組制作者はそれまでメディアの主流だった「耳で聞く」ラジオに対して、新興メディアであるテレビの優位性を「目で見ること」と捉え、いかにして「視覚的」に表現するか積極的に試みていた。1952年、後に日本テレビの二代目社⻑となった清水与七郎は目指すべき娯楽番組の方向性として「また演芸、娯楽番組としては劇、映画、クイズもの、曲芸、奇術その他バライテイシヨウ等「視て娯(たのし)める」点に主眼を置き、家庭全部で見られる演芸として明るい娯(たのし)めるものを送る」ことが重要と述べている。[3] 例えば1956年放送開始のNHK「演芸アパート」はその企画意図が次のように説明される。

1954年に始まった『お好み風流亭』が落語、漫才などのいわゆる“口もの”をメインに構成したのに対し、「曲芸」「玉のり」「奇術」「アクロバット」「曲独楽」「物まね」「紙切り」「福助踊り」「大神楽」「歌謡コント」などの“見る演芸”で構成したお昼の演芸番組。[4]

「口もの」と表現される落語や漫才、浪曲に対して、「見る演芸」をメインに据えた点が新機軸だった。マジックは「ラジオ放送」とは無縁な存在だったが、「テレビ放送」の登場によりボールが消える、カードが増える、人が切れる、浮かぶ、変わる……マジック(奇術)が生み出すマジック(魔法)を言葉以上に、ある意味ではより”雄弁に”訴えかけることが可能になったのだ。(とはいえ戦前にもラジオで種明かしをしたり、太神楽(ジャグリング)の掛け合いを吹き込んだレコードは存在したことは付記しておく。)

前述の安部元章はかつて芸人の徳川夢声、アナウンサー和田信賢と同席した際に「安部さんの芸は、ラジオでは残念だがどうにもならない。テレビが放送されたら、あなたの時代ですね」と話しかけられたという。[5]

マジックの現象を音声のみで伝えるのは困難だ。私自身、小さい頃に見たマジック番組の記憶として「観客が自分の選んだカードの名前を大きな声で喋ってしまい、マジシャンに知られてしまう」というハプニングシーンを見た覚えがある。これを防ぐにはどうすればよかったのかと言うと、黙ってカードをカメラに向けて、(マジシャンを除く)スタジオ全員と視聴者が目で確認することになるだろう。この”儀式めいた”やりとりは視覚のみでコニュニケーションが成立する/してしまうテレビ特有の現象だが(=反対に、音声のみが伝達されるラジオではそもそもカードマジックが演じられないのでハプニング自体が発生し得ず、このシチュエーションも発生しない)、翻ってテレビ特有の「課題」も浮かび上がらせる。

[3] 郵政省電波監理局『電波時報』第7巻第10号、電波振興会、1952年
[4] NHKアーカイブ:https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009041130_00000(2024年1月29日閲覧)
[5] 力書房『奇術研究』1号、1956年

「実験放送」とマジシャン -テレビは敵か味方か-

テレビの本格放送開始に先立つこと3か月前の1952年12月6日午後8時、3人のマジシャン(柴田直光、坂本種芳、田中仙樵)がNHKに招かれて「実験放送」に出演した。[6]

「実験放送」(試験放送とも呼ばれる)とは翌年の放送開始に向けて写りや技術的な問題をチェックするためのもので、実際に番組を撮影して放送する。マジシャンはいわば「実験台」に選ばれたわけだが、マジシャン以外の出演者にはやはり視覚的要素の強い「操り人形使い」も選ばれていたようだ。テレビという新興メディアに対峙する番組制作者がその魅力を引き出さんとばかりに「見る演芸」に白羽の矢を立てたのは、映画黎明期に多くの特撮作品を制作したジョルジュ・メリエスがもともとはプロマジシャンだったというエピソードも無関係ではなさそうだ。NHKの番組制作者が試行錯誤を重ねる一方、この状況を純粋に喜んだのはマジックマニアだった。

それまでは「名人」と呼ばれるマジシャンの演技を楽しむには現地(劇場や寄席)に出向いて観覧するほかなかったからである。それがテレビを通じて「生の演技」を鑑賞できるようになったことは画期的だった。とはいえ当初は放送区域も限られたもので、1953年のNHK開局当時のテレビ受信契約数は(テレビ自体も高価だったこともあり)僅か866件(受信料200円)だった。[7] NHKの電波カバー率が全国8割に至ったのは1961年のことである。[8] 加えて家庭用の録画環境も整っていない状況にあって、マジックマニアの「テレビに映るマジシャンは一瞬でも見逃すまい」という思いは特に強かったことだろう。冒頭で紹介した「テレビ画面の撮影写真」はそんな執念の発露だったのである。

[6] 日本奇術連盟『奇術界報』140号、1953年
[7] NHKテレビ放送史:https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/genre/hososhi/(2024年1月29日閲覧)
[8] 『NHK年鑑 1962』日本放送協会、1961年

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続きは『Newワン・ツー・スリー』第12号をご参照ください。
記事はこの後、実験放送に打ちのめされた奇術界の反応と試行錯誤、「テレビ奇術研究会」発足、初期の種明かし番組とテレビ局・視聴者の反応……等々を取り上げます。お問い合わせは日本奇術協会著者まで直接ご連絡ください。