「読心術」をめぐる奇術界の動きと周辺(1):日本メンタリズム史の備忘録

日本のメンタリズム(Mentalism)の歴史をまとめることが、2022年のテーマの一つである。マジックをやる人にとって「メンタリズム」とは、超能力風の演技であったり、テレパシーや読心術をパフォーマンスとして見せるような一分野を指す(ということにする)。

しかしながら現代の日本においては、特定のパフォーマー、または海外ドラマの、あるいはその両方の影響により、必要以上に用途を限定された言葉になっている。(それ以前に、そもそも一般の認知度が非常に低いのだが)。

言い換えれば、それだけ「メンタリズム」という言葉が曖昧であり、使い勝手がよく(悪く)、また(マジシャン以外の)誰も気にしていない言葉である、ということだ。つまりメンタリズムという言葉が正しく理解されていないと気にするのはマジシャンくらいなもので、それ自体は大した問題でもない。

では何が重要なのか。なぜいま、日本メンタリズム史をまとめなおすのか。

これは漠然と思い描かれてきた「メンタリズム」という言葉を記述し直そうとする試みである。まずマジシャンにとってメンタリズムとは何かを考える。それと同時に、「なぜメンタリズムが日本人の大多数にとってどうでも良いものなのか(あるいはそうでないのか)」も考えていく。

そのためにはメンタリズムの奇術的な側面(トリック、パフォーマンスとして)の記述と、メンタリズムを受け止める社会(観客、大衆、社会状況)の記述が必要であろう。この記事ではその前提として、日本で一時期から流行した「読心術」について基本的な情報をまとめておくこととする。

トップ画像は『奇想天外大奇魔術集 第一編』(昇天斎登喜夫、1925年)より

日本における「当て物」奇術

奇術界において「読心術」とは、その名のとおり「観客の心を読み、考えていることを当てる」奇術である。こうした現象は「当て物」と呼ばれて日本でも古くから存在している。資料を遡って確認できる最も古い事例は「目付絵」「目付字」と呼ばれるトリック群だ。

数理原理を用いたもので、漢字やひらがな、時には役者絵などを観客に一つ選ばせ、これを演者が当てると言う遊びである。江戸時代の和算を紹介した書籍とした知られる『塵劫記』にも掲載されているが、詳しい演技方法は記載がない。

『新編塵劫記』3巻、1689年(国立国会図書館デジタルコレクション)
『新編塵劫記』3巻、1689年(国立国会図書館デジタルコレクション)

プロが演じる本格的な演目というよりは、お座敷で戯れに興じる「遊戯」「玩具」としての側面が強い。それでも巧妙な原理やバリエーションの作りやすさもあって広く発展した。これについては東京マジックにて松山光伸が詳述し、また河合勝がトリックの変遷を追っているので紹介する。

結論としては、日本古来の目付絵や目付字は「お座敷」の芸、すなわちクロースアップ・マジックの範疇であり、プロが「興行」に用いる類の演目ではなかったのである。

「読心術」なる言葉について

「読心術」という言葉は奇術発祥ではない。これは「伝心術」などとも呼ばれ、1800年代後半にはいくつか専門書も出ている。例えば1892年の『読心術』(スチュワート・カンベルラント著)では次のように定義する。ちなみにこの本は尾崎行雄と犬養毅が序文を書いている点が興味深いが、スチュワート・カンベルラントについてはよくわからない。

泰西に奇術あり之を読心術と云ふ則ち他人胸中の意想を探て之を読み当てるの術なり

上記の引用に「奇術」とあるが、これは芸能の「奇術」ではなく、奇妙な術、もしくは驚異的な術、程度の意味合いである。

同じ年に出た『新編心理学講義 教育応用』(牧瀬五一郎著)では「読心術(Mind Reading)」の項で次のように記す。

読心術とは他人の自ら思念し又は事を為せることを想像して当つるの術なり

牧瀬はこの本で心理学の基礎を説き、そこに催眠術や記憶術と共に読心術を立項している。また「妖怪博士」として知られる井上円了の『妖怪学講義』(1896年)では、筋肉の動きなどから「心内を察知」できるのだとして、読心術が何ら不思議なことではないと論ずる。

要するに読心術は神力魔力の致す所にあらず、又電気「エーテル」の作用にもあらずして、心理生理の学理に由りて説明せらるべきものなり

わざわざ井上がこう記したのは、読心術が「神力魔力」の仕業として披露される状況が(当時の日本に)あったことをうかがわせる。当時既に明治の世を迎えていたとはいえ、呪いや宗教的な催しとして、あるいは見世物として読心術めいたパフォーマンスが行われていたのだろう。

また西洋では催眠術を科学と捉える動きもあり(言語暗示によって催眠状態を引き起こす「電気生物学」等)、1890年前後の日本は「第一次催眠術ブーム」(一柳廣孝、1994)を迎えていた。

こうした動きの中で、読心術もある種の科学的な観察の対象として、精神世界や心理学の周辺における一分野として語られていたことは抑えておきたい。催眠術は「幻術=見せもの芸」「心理学・医学上の新技術」「民間の催眠療法や新哲学」という三つの経路で伝播したとされるが(井村宏次、1990)、まさしく後述する読心術と同様である。

パフォーマンスとしての「読心術」

コノラ嬢(Madame Konorah)

これを劇場で大々的にパフォーマンスとして、つまり娯楽として見せたのは明治期に来日した外国人たちである。代表的な人物がコノラ嬢(Madame Konorah)である。

「大阪毎日新聞」1903年12月31日
「大阪毎日新聞」1903年12月31日

1904年1月3日に大阪朝日新聞の記者が目撃した現象を引用する。

嬢は先白の布切もてヒシと目括をなしたるまゝ三間許り隔たりし椅子に凭り掛りてあり。記者は密に所持品を取り出したるに、直に何品なるかを言ひ当て、一も誤る處なし。

例へば懐中時計を手にするときは、一瞬をもまたずして其と答へ、金側、銀側、若くはニッケル等一々質に応じて指名するのみか、蓋の工合、時間の何分何秒に至るまで詳しく説き明かすなり。又懐嚢の中より五十銭銀貨を取り出して、明治何年の鋳造なりやと問はゞ、声に応じて直に其年を答ふるなどは誠に造作もなき話なり。

目隠しをしたコノラ嬢が記者の持ち物を言い当てるのだが、持ち物が懐中時計であれば材質や時刻まで的中させる。またコインならば鋳造年も当ててしまう。井上円了が言うところの「神力魔力」を地でいくコノラ嬢は「西洋巫女(魔術遣ひ)」などと呼ばれ(これは海外で「Western Witch」などと呼ばれていたことの直訳であろう)、1899年と1903年から翌04年に日本各地で興行した。

  • 1899年10月21日〜23日 横浜 ゲーテ座
  • 1899年10月30日〜? 東京築地 メトロポール・ホテル
  • 1899年は神戸でも興行した記録が残る
  • 1903年12月12日、14日、16日 横浜 ゲーテ座
  • 1903年12月17日〜18日 東京 帝国ホテル
  • 1903年12月21日〜22日 大阪 中之島公会堂
  • 1903年12月29日 大阪 大阪ホテル
  • 1904年1月1日 大阪 中之島公会堂
  • 1904年1月15日〜2月9日 大阪 浪速座
  • 1904年2月11日〜20日 京都 南座
  • 1904年2月22日〜28日 名古屋 歌舞伎座
  • 1904年3月2日〜9日 東京 歌舞伎座
  • 1904年3月11日〜? 東京・神田 錦輝館
東京築地 メトロポール・ホテル
東京築地 メトロポール・ホテル

ところどころ期間が空いているのは興行記録が見つけられなかったためで、上記以外の都市で興行した可能性は高い。歌舞伎座(東京)や南座(京都)など比較的大きな劇場にも出ており、それなりに人気があったようだ。

結論から示せば、コノラ嬢のパフォーマンスは「ツー・パーソン・テレパシー」(Two Person Telepathy)と呼ばれるパフォーマンスである。その名の通り演者は二人一組で登場し、一方が目隠し(または外部との連絡手段を遮断した)状態になり、もう一方(助手)が観客から持ち物を借り受ける(あるいは紙に自由な単語を書いてもらう)。すると、たちどころに目隠しをした側が、その持ち物を、あるいは紙に書かれた単語を言い当ててしまうという現象(見えるはずがないのに!)である。つまり演者には「テレパシーがある」のだ。

「ツー・パーソン・テレパシー」は、呼称そのものが種明かしになっている。極めて単純化して明かすとすれば、演者の二人だけが理解する暗号(コード)がいくつかあり、これを組み合わせて伝達するのである。この暗号は非常に巧みで観客には気付かれない。暗号は品物の種類だけでなく数字も伝えることができ、(大阪朝日の記者が驚いたように)硬貨の鋳造年まで伝えることができる。

「通信技術の発達した現代では廃れた」と言うこの種の演技ではあるが、つい最近でもレクチャーDVDが発売されるなど、適切な環境で演出された演技は依然として強烈な現象であることは確かである。

コノラ嬢はアメリカのボードビルなど世界各地を興行する生粋の芸人であったが、注目すべきは奇術師(Magicia、Illusionist、Conjurer等)として評されていない点だ。あくまで「西洋巫女」なのである。

キャッスルマン夫妻(Castleman and Miss Montgomery)

キャッスルマン夫妻(「新来朝者米国文学士カツスルマン一座」とも)は1911年に日本各地を巡業して「実験」して見せた。

錦輝館の千里眼実験 昨日午後二時から神田錦輝館にて米国千里眼文学士と称するカツスルマンによりて催眠術千里眼の実験は催され、(略)前後に実験した千里眼の力と、双眼を一つ〳〵ガーゼで押へ、黒布を以て二重に巻いた眼隠のまゝ、(略)又黒板の裏に書かせた数字をあてゝ、一二三四一五三七とありしを一二三四五六七とあて、六は少し怪しいと答へしには満場拍手を以て迎へたり。(「都新聞」1911年5月17日)

1910年に興行したオーストラリアの新聞によれば彼らは(奇術師ではなく)「Hypnotist and Mind-Reader」であり、その舞台も催眠術実験という位置づけである。

Cairns Post,1911年7月11日
Cairns Post,1910年7月11日

ジョン博士

1918年に来日したのが「読心術の大家」ことベルギー人ジョン博士である。金属片など「媒介物」によって心を読むのだといい、三井物産が絡む盗難事件の解決にも加担したという。新聞に語ったところによれば「人を欺く手品の類ではなく全く科学的な作用から出来る」とする。

「央州日報」1918年7月2日

ジョンもまた奇術師とは自称していない。そのパフォーマンスは心理学界隈でも取り上げられており、東京帝大出身の心理学者・中村古峡の雑誌「変態心理」でも特集が組まれた。

京都・南座に出演中の6月29日には合間を縫って「医科大学精神科教室に今村医学博士を訪ひたるに、心理学専攻野上文学士外数名の教授も来り会し、独特の習熟読心術(カルチベートテレパツシー)に就き種々意見の交換をなした」(「京都日出新聞」1918年6月30日)とある。

「今村医学博士」とは、京都帝国大学医学部で精神医学の教鞭をとった今村新吉だろうか。福来友吉博士らとともに「千里眼事件」の主人公とも言える御船千鶴子を研究した人物で、1910年には自らが熊本に赴いて御船相手の実験会を開いている。千里眼はいわゆる「透視」で、いくつかの実験を分析した今村によれば「此透見ナル能力ノ存在ハ信ズ可キノ事實」(『京都医学雑誌』7(2) 、1910年)なのだという。

なお、透視や念写も日本メンタリズム史では扱いたいと思う。千里眼事件と学会の動きについては国立国会図書館「本の万華鏡」の特集がわかりやすい。

野上俊夫
野上俊夫

同席した「心理学専攻野上文学士」とは、当時は京都帝国大学にいた心理学者・野上俊夫であろう。この実験がきっかけになったかは不明だが、野上は翌年に『叙述と迷信』なる本を出し、奇術を取り上げている。(ジョン博士の名前は登場しない)

野上はいくつかの奇術トリックや奇術師を示し、「手品に於いて利用せらるゝ心理作用」としてその心理的性向を解説する。ここにはミスディレクションの原理も語られているのは面白いが、それ以上に興味を引くのは「ツー・パーソン・テレパシー」の種明かしをしている点である。特に女性と助手のコンビがコインの鋳造年や時計の時刻まで的中させるシーンを記述していることから、野上の念頭にはコノラ嬢があったのかもしれない。

ジョン博士に話を戻すと、彼については森田療法で知られる森田正馬、あるいは「変態心理」で取り上げた中村古峡も実験を行っている。その顛末を宗教学の吉永進一は「大正七年に『変態心理』同人が行なった読心術実験が載っている。その霊能者ジョン博士は古峡・正馬の鑑定を待つまでもなく、手品師に過ぎないというのは実験録で容易にわかるのだが、このようなイカサマ実験を読者につきつけて、心霊現象全体を推断させるというお馴染の情報操作を森田も行っている。」と記す(霊と熱狂「迷宮」3号、1980年 )。

ここで日本のスピリチュアル史を詳細に記述することは避けるが(まだ自分自身で整理できていない)、明治末年から大正にかけて活動した学者、さらには霊術家や宗教家にとって、ジョン博士という怪しげな芸人ですら重要な研究対象となっていたことが興味深い。

1910年代の「読心術」における演技態度

井村の指摘する三つのチャンネルからすれば、彼らの演技態度は次のように分類される。

  • コノラ嬢 = 幻術=見せもの芸
  • キャッスルマン夫妻 = 心理学・医学上の新技術
  • ジョン博士 = 心理学・医学上の新技術、民間の催眠療法や新哲学

三組の例でしかないが、読心術が怪しげな幻術や、それに対抗する心理学や科学の文脈で語られ、披露されたことがわかる。

これを奇術の文脈に持ち込んだ最初期の事例は、1906年の松旭斎天一である。

(続く)