木村靖子と戦前の関西写真界 ──「魔術王」の妻・マジシャン・女性写真家として

マジシャンの木村マリニー(1894?-1965)について調べている。『近代日本奇術文化史』の「近代日本奇術師列伝」にはその生い立ちについて──

大正期に大魔術や読心術で興行し、昭和期には奇術指導を行った。本名は木村荘六。東京生まれ。父の荘平は、いろは牛肉店の経営で知られる実業家で政治家。兄弟には作家・翻訳家の荘太、経済学者の荘五、作家の木村曙 (栄子)、新派女形の木村春夫(荘七)、洋画家・随筆家の荘八、『雲南守備兵』で直木賞を受賞した荘十、松旭斎天勝主演の映画『魔術の女王』や『エノケンの魔術師』を監督した荘十二らがいる。

随分と派手な家系である。マリニー自身は通訳・活動写真弁士・マジシャンとして活躍し、昭和の寄席に欠かせない名人・アダチ龍光の師匠でもあった。

木村マリニー(個人蔵絵葉書)
木村マリニー(個人蔵絵葉書)

いま個人的に取り組んでいるテーマが近代における奇術と心霊・催眠術等々との距離感なので、「帝国変態心理学会」なる団体を主宰したこともある木村マリニーという人はなかなか調べがいがある。

そんなマリニーの妻・靖子(同じく舞台に立った)についても色々と興味深いことがわかったのでメモしておく。と言っても奇術ではなく「写真」についてである。

マリニー一座のチラシ(個人蔵)。左が妻・靖子、左は若き日のアダチ龍光。
マリニー一座のチラシ(個人蔵)。右が妻の靖子、左は若き日のアダチ龍光。

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木村マリニー・靖子夫妻と写真

理由は定かでないが、マリニーは1920年代(まだ20代である)にはプロマジシャンを引退して大阪・東区南久宝寺に「マリニーキムラ写真館」を設立、写真家に転身している。

『朝日年鑑』朝日新聞社、1932年

当時の関西は実力ある写真家がたくさん活躍しており、彼らによって「浪華写真倶楽部」をはじめとする有力な写真団体が数多く誕生した。この頃の写真雑誌などを見ると、マリニー夫妻も「香陽会」(1932年発足)や「大阪写真師会」(評議員)、「西大阪写真師会」(常任幹事)などに所属して作品を発表している様子が窺える。

時には奇術を演じることもあったようで、当時の写真だろうか「大阪老舗写真館旧蔵資料」としてマリニーの舞台写真がヤフオクに出ていたことがある。

ヤフオクより「◆大阪老舗写真館旧蔵資料◆奇術師・木村マリニー靖子夫妻の大魔術ショー風景2枚」
ヤフオク「◆大阪老舗写真館旧蔵資料◆奇術師・木村マリニー靖子夫妻の大魔術ショー風景2枚」より

いくつかの雑誌記事はその様子をレポートしている。(以下の引用、太字は著者による)

十八日午後六時天満橋野田屋宴会場において、吉例によりて東研主催の大懇親会が開催された。(中略)
別室においては、木村荘六氏の厚意にかゝる餘興があつた、木村氏は得意の精神感応、奇術カード手品数番を演ぜられ、その入神の妙技に会集いづれも驚異して熱狂的拍手を惜しまなかつた。『写真月報34(6)』1929年6月

此れについで木村荘六氏の手品、全く此の人写真屋さんを止めて此の道に入られたとなればと余計な気苦労をする。令夫人靖子さんは靏殿輝子婦人につゞく閨秀作家であるは云ふまでもない。『写真月報34(7)』1929年7月

上記二つは同じ会合の様子だろう。マリニーの腕前はかなり知られたものだったようだ。ある時は実演と講演を組み合わせることもあった。

大阪の写真科学会二月例会は、二十日(木)午後七時より、堂ビル会議室に於て開催された。(中略)
当日の講演は何時もの固苦しい研究事項と異り、一寸風変りな木村荘六氏の「精神科学の信仰について」と題するものにて、木村氏独特の「読心術」を始め、「霊媒術」「魔術」「迷信」「巫女」「感応術」等につき、約二時間に亘る講演と実験あり、誠に当夜は、冷静な、試験管と顕微鏡と、レンズと、メーターの科学者をして、一種幻妙不可思議な、まつ暗な霊の世界の、なまあたゝかい興奮を興へ、顔色なからしめたのであつた。『写真月報35(4)』1930年4月

靖子と有力アマチュア写真家 ──安井仲治ら──

先の引用で「靏殿輝子婦人につゞく閨秀作家」(引用注:けいしゅうさっか=優れた女性作家)と高く評価され、写真家として──ある意味では夫以上に──旺盛な創作意欲を発揮して輝いたのが妻・靖子だった。写真家団体の催しには積極的に顔を見せていたようで、1929年1月には「研友会」で実験的な撮影手法を見学している。

六時劈頭、川邉氏の顔が見え、続いて今日の立役者森本氏、続いて山﨑氏更に小川、田中両氏、神戸から靏殿氏、銀鈴社の米谷、梅阪、安井氏等続々と集まり六時半頃には一同の顔振れもすつかり揃つた。中に紅一点木村荘六氏婦人の見学出席は吾々会員を感動さすものにて、会場は大ひに緊張した。『写真月報34(3)』1929年3月

「銀鈴社の〜」とあるのは大阪を代表する写真家だった米谷紅浪梅阪鶯里、そして安井仲治である。安井仲治は先日、東京ステーションギャラリーで大規模な回顧展があり見にいった。実はここで安井の活躍した1920〜30年代の関西写真界とマリニーの関わりが気になって調べたところ、実際に接点が見つかったことがこの記事のきっかけになっている。

『写真月報34(3)』1929年3月
『写真月報34(3)』1929年3月

写真表現の可能性を追求し第一線で活躍していた面々が集うこの会で靖子は何を感じ、得たのだろうか。銀鈴社のメンバーと靖子は他にもいくつかの懇親会・研究会で一緒になることがあったようである。

靖子と”日本最初”の婦人写真団体「卯月会」

靖子の創作がいっそう活発になるのはこの頃からで、1932年には日本初の「女性写真家団体」とも評される「卯月会」の創設メンバーとなった。小西六写真工業(現・コニカ)の社史『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社社史編纂室、1973年)によれば、

日本最初の婦人写真団体 ──卯月会誕生
次に異色の写真団体の登場をのべよう。パーレット関西部同人会のアマチュア女性作家木村靖子ほか5名の女性は、小西六大阪支店長杉浦宗次郎の肝いりで、昭和7年4月27日、卯月会を結成した。(中略)当時の新聞も、日本最初の婦人写真団体としてこれを紹介しているが、大阪支店でも”卯月会係”を設けるという熱の入れ方であった。

「卯月会」メンバー写真。靖子は前列左から二人目。

『日本写真年鑑』では靖子のほか靏殿輝子、梅坂道子、池田高子、池田好子、柴田糸子、石川春江の計7名がメンバーとクレジットされている。雑誌『カメラ』(1932年6月)は「靏殿、木村、石川の三氏は既に知られてゐる人達ではあるが〜」と書いているから、その実力は広く認知されてたようである。

1933年は「第22回研展」(「東京写真研究会」が開催する公募展)に非会員ながら「ぼたん」を出品、銀賞を受賞している。『写真月報38(8)』に載った選評には──

全面に亘つて細心の注意が行き届いた如何にも女性らしい作品である、殊に暗部のテクニツクに魅せられる、明暗の分布も申分ない、只だ花に今少し水気がほしかつた。

その後は何度も「卯月会」の自主展覧会を開いたり、品評会へ出品したり、写真雑誌に撮影日誌を書いたり……と旺盛な活動を続ける。雑誌掲載された作品も多く、古書店で1930年前後の雑誌を買うと靖子の作品がいくつか見つかった。手元にあるものからいくつか挙げておく。ゴム印画やブロムオイルなどいろいろな表現を試したようである。

ダリヤ(1933年)
ダリヤ(1933年)
静かなる池(1933年)
静かなる池(1933年)
島の娘(1939年)
島の娘(1939年)

その後は戦争の影響で写真雑誌も休刊・廃刊があり、自由な創作も制限されたのか靖子の作品発表は見られない。夫妻には息子がいたが戦死した──という。

……と、ここまで靖子の写真家としての一面を記述してきた。写真家としての評価・活動力は夫のマリニーを凌ぐほどだし、何より「卯月会」をはじめとして「女性写真家」黎明期を語る存在としても重要な人物ではないだろうか。写真史には疎いので、もう少しこの辺りの先行研究がないか探してみたい。

マリニーはリアリズムに徹しながら顧客のニーズに応える「職業写真家」であり、その意味では「客商売」然とした姿勢はプロマジシャン時代と一貫しているように思う。

対して靖子は、純粋に写真表現の可能性を試行錯誤して追求するアマチュアイズムが基本スタンスだったようである。関西におけるアマチュア写真家たちの全盛期と同じ時代・同じ場所に生きたことで靖子の才能は開花した──というところか。

戦後、時期は定かでないもののマリニー夫妻は奈良へ転居。「荘六会」という愛好会を作っては息子と同世代の弟子たちを可愛がり奇術を教えていた。大阪アマチュアマジシャンズクラブによれば、靖子は弟子たちの奇術をマリニーの横でじっと見ていては夫以上に厳しく指導していたようだ。

その一方で、靖子の名前を写真界で見かけることはなくなってしまう。まさか撮影をやめてしまったわけではないだろうが……。

木村マリニーは1965年12月18日に死去する。靖子はしばらく奈良で一人暮らしをしていたが約2年後に「忽然と消息を断たれた」という。「荘六会」の設立者で夫妻と親交のあった赤松誉義は「奥様の御上京」と書いているから、靖子は1967年頃に東京へ引越したと思われる。長く居住し知人も多かったであろう関西から単身上京した理由、そして一切の奇術関係者と関わらなかった理由はわからない。どの関係者に尋ねても1960年代以降の消息は不明である。もう少し調べてみたい。