両親指を重ねてきつく縛ったはずなのに柱や腕を容易く貫通してしまう……という現象のサムタイ(Thumb Tie)なる手品がある。明治を代表するマジシャン松旭斎天一も得意芸とし、現代では多くのマジシャンが和装で演じるので「日本手品の代表的演目」として認識されているが、実際のところ幕末明治に西洋から”輸入”されたと考えられている。[1]
その根拠とされるのが、第一に世界に類を見ないほど奇術解説書が盛んに出版されていた江戸時代にあって「サムタイを解説した本」が見当たらないこと。「日本の伝統」の手品であるのに江戸時代の文献に登場しないのは不自然という意見である。
そして第二に、日本で最初にサムタイを演じた(と思われる)日本人マジシャンは、「倫敦手品」(LONDON TESHINA)と名付けたショーの中で披露していたこと。つまり明治期のサムタイは西洋手品として認識され演じられていたのだ、という理由である。
この「日本で最初にサムタイを演じたマジシャン」は「青柳春日」なる人物なのだが素性は不明、そもそも「春日」の読み方も「かすが/はるひ」どちらかすらわからない……という具合で気になる存在だった。このところサムタイの起源探しに興味が出てきて「日本人初のサムタイ演者・青柳春日」についても調べていたところ、少しずつ素性に近づけたのでメモしておく。
以下の来歴は日本蚕業雑誌社『日本蚕業雑誌(95)』1896年、女学雑誌社『女学雑誌(432)』1896年、学農社『農業雑誌(21)』1897年、工談会『工談雑誌(90)』1897年などに拠る。書かれたのが1896年、1897年に集中しているし、明治大正の詩人・作家である岩野泡鳴が来歴を書いていたりとこの頃は春日が脚光を浴びる出来事が何かあったのかもしれない。
青柳春日は本名を関水春吉。1843年(天保14年)3月に相模国高座郡福田村(今の神奈川県大和市)に生まれ、幼い頃から養蚕業に従事していた。成長するにつれ「注意周到にして絶ず工夫」を凝らす性格で知られるようになり、次第に奇術の考案に才を発揮しはじめたという。
例えば「電気熱」を応用して菜の花を咲かせる「春色菜種の早咲」。これは江戸時代から知られる「種蒔箱」という手品の応用だろうか。また鶏の首を切って再び繋げてしまう「鶏の首切り」は特に評判を呼んだようである。
青柳春日としてのプロデビューは1871年で28歳のとき、「春日」は「かすが」と読む。寄席を中心に活動し、黒と白の二色の鶏を用意してそれぞれの首を切り取って入れ替える(首と胴の色が違う鶏になる)……といった演出も見せていたようだ。
明治初期の寄席事情を回想した「寄席の楽屋」という『都新聞』の記事(1902年1月2日)には
此の頃青柳春日と云ふ手品師がありましたが、是れが各寄亭にて鶏の首切を演て居まして非常の評判であつた
とある。青柳の名は桂文之助の『古今落語系図一覧表』(1916年)の「西洋手品」では筆頭に挙げられておりそれなりに実力は認められていたようだ。
しかし苦労も多かったようで、鶏の首を客に切らせるとき「はづみ」を誤って親指を傷つけられてしまった。東京では演技が「切支丹」と疑われ弁明するよう警察に勾留されたり、埼玉では「魔法」を使ったとして冬に襦袢一枚で木に縛り付けられたり……数々の災難に見舞われている。
その後、春日は知人に勧められてキリスト教に関心を強め横浜で「宣教師ポート師」に出会う。ここで「野蛮妄想の夢」が覚め、1881年にキリスト教に入信。ここで「手品の如きは見易き道理を誇張して、人を欺くもの」と考えてマジシャンを廃業している。
その後は「世界未曾有の大発明家」として「弾力機関車」(水銀と空気の弾力を応用した動力機関)などを考案、一方で養蚕業でも病気治療法を編み出すなど活躍したようで奇術界・興行界に戻った様子はない。先の資料で来歴が書かれたのも「弾力機関車」発明前後のことである。
明治時代の西洋手品の演じ手がキリスト教を積極的に「演出」した事例はよく知られているが、春日のエピソードは開国後の日本における西洋手品の受容と「キリシタン」への眼差しを示すものとして興味深い。[2]
……今回のメモの趣旨に戻ると、春日が「日本で初めてサムタイを披露した人物」とされる件の興行は1873年、浅草の蔵前八幡神社で開かれた「倫敦手品」(LONDON TESHINA)のことである。
この時の絵ビラが現存しており(河合勝コレクション)、そこにはサムタイ、鶏や兎の首切り、帯を使った脱出芸、燃やしたハンカチの復活、菜種を瞬く間に発芽させる……といった演目がイラストで紹介されている。その時の評判はこちら。(『新聞雑誌』151号、『日本初期新聞全集』61巻より)
浅草蔵前八幡社境内ニ、英国倫敦手品トテ興行セリ。彼ノ曲技師ハ、先年渡海シ龍動ニテ伝授セシ秘術ヲ演技セリト。尤モ見物人ノ目ヲ驚セシ事ハ鶏ノ継首トテ、見物人ヲシテ鶏或ハ兎ノ首ヲ勝手ニ切リ落サセ、暫ラクシテ切首ヲ継ギ、吹薬ナドノ療治ヲ加ヘ、冷水ヲ吹キ掛クレバ、死鶏忽チ蘇生シテ羽振ヒ、喙ミ等セリ。又菜種蒔トテ種ヲ土ニマキ散ラシ、暫時ニシテ二葉ノ芽ヲ吹出セリ。或ハ雪ヲ降シテ氷ヲ製シ、帯ヲ断テ継ギ直ス事アリ。総テ曲技ハ見物人ノ手ヲ借リ、目前ニテ公ニ所作ヲナス故、疑惑ヲ起セル者ナシ。元来吾邦ノ手品ハ、児童ヲ欺ク迄ナシ。彼国ノ手品曲ハ究理分析ノ一端ナレバ、児戯ニモ工夫発明ノ念ヲ起シ、無益ノ観覧ハナキ事ト来話セシ人アリ
(意訳、改行や強調は著者による)
浅草蔵前八幡神社境内で英国ロンドン手品という興行があった。その曲技師(手品師)はロンドンに渡り伝授された秘技を演ずるという。
観客の目を驚かせたのは鶏の首継ぎといって、観客に鶏または兎の首を切り落とさせ、しばらくして繋ぎ合わせ、薬などで治療して冷水を吹きかければ死んだ鶏もたちまち蘇生し羽を振って啄む。また菜種を土に撒いてしばらく経つと芽吹く。あるいは雪を降らして氷を作り出し、帯を切断して継ぎ直す(復活させる)などある。
すべての曲技(手品)は観客の手を借り、目の前で公に行うので、疑惑を持つ者はいない。元来、我が国の手品は子供騙しだった。しかし彼の国(イギリス)の手品は研究の一環であり、子どもにも工夫発明の気持ちを起こすので、観覧して無益なことはない。
日本古来の手品と西洋手品をミックスしているような印象を受けるが、興味深いのは春日がサムタイをいかにして学んだかである。
現在の奇術史研究においてサムタイはイタリアのピネッティ(Giuseppe Pinetti、1750年〜1800年)のアイデアが最初期とされており、これは1785年にアンリ・デクロン(Henri Decremps、1746年〜1826年)が著した『Supplément à la Magie blanche dévoilée』や『Recueil de planches de l’Encyclopedie』(1790年)などに掲載されている。
この頃の演出は結んだ親指を帽子などで隠すが”手を外して”ワインなどを飲み手を引っ込め、観客に結び目を確認させるがしっかりと縛られたまま……という「サムカフ」的な演出だったようだ。(リンク先はマジックショップの演技動画)
日本語でサムタイが解説された最初期の例は、福井歌呂久の『大日本長崎渡海シイボルト先生直伝 座敷諸伝授』である。これは「1877年以前」の刊行とされており(正確な出版年はわかっていない)、そこに「はしらぬきの伝」と解説されたのがサムタイである。書名にある「シイボルト先生」といえば幕末に来日した医師・植物学者のシーボルトを連想するが彼がマジックに親しんだという情報はなく、西洋伝来であることを印象付けるため勝手に借用したのだろう。
もう一つの例は1880年の翻訳書『西洋奇戯の問屋 初編』(英人クレマ氏著、日本鈴木芳吉訳)がある。『近代日本奇術文化史』によるとクレマ氏というのはイギリスのマジックショップ経営者ウィリアム・ヘンリー・クレマー(William Henry Cremer)のことで、彼が本国で編纂した複数冊を底本にして日本で翻訳出版されたのが『西洋奇戯の問屋』である。サムタイは「柱抜けの術」のことでCremerの底本では「THE THUMB TRICK」のタイトルで解説されている。
- 1785年|『Supplément à la Magie blanche dévoilée』→確認できる限り最初のサムタイ解説
- 1790年|『Recueil de planches de l’Encyclopedie』(1790年)→サムタイ解説
- 1871年|『The Magician’s Own Book』→『西洋奇戯の問屋』底本
- 1871年|青柳春日がプロデビュー
- 1873年|青柳春日が蔵前で「LONDON TESHINA」興行→確認できる限りサムタイ初演
- 1877年以前|『大日本長崎渡海シイボルト先生直伝 座敷諸伝授』→確認できる限り最初の日本語解説
- 1880年|『西洋奇戯の問屋 初編』→『The Magician’s Own Book』を翻訳
- 1886年|『西洋手品種』
前述の『新聞雑誌』は春日について「先年渡海シ龍動ニテ〜」と記しているがおそらくハッタリで海外渡航歴はない。春日のサムタイ習得は蔵前で演じた1873年以前になるのは当然であるが、日本国内で演じていた外国人マジシャンから伝授されたか、あるいは本で習得したのだろうか。
本で習得した可能性については、1873年以前に出版された可能性がある日本語の奇術書は確認できる限りで『シイボルト先生直伝〜』のみ、しかし解説はごくごく質素なものでこれを読んでプロが実演するレベルまで理解できたかは疑わしい。
とすればクレマーの『The Magician’s Own Book』など何らかの外国の奇術書を入手(春日の出身地が開港の舞台となった横浜に近いことも関係あるだろうか)して習得したのかもしれないが、そう考えると春日の演技が「柱に両手を貫通させる」スタイル(文字通りの柱抜き)であることの説明がつかない。(外国の奇術書には「外した手をあえて見せる」スタイルが解説されているからである)
今のところ幕末明治期に来日したマジシャンがサムタイを演じたかどうか確定的な資料はない。もし存在していたとしても、やはりその演出はデクロンやクレマーの解説にあるように「外した手をあえて見せる」スタイルだったのではないか。とすれば、春日に始まり松旭斎天一以降も続く「柱に両手を貫通させる」スタイルは日本で独自に発展したと思われ、その源流が春日自身の考案なのか、別人物が登場するのか、現時点で判断できない。
情報を整理するため長々と書き連ねてきたが、総じて確定できる情報、資料まで至らなかった。未だ発見されていないサムタイの日本語解説書(1870年前後?)、あるいは明治時代にサムタイを演じた外国人マジシャン、日本人マジシャンの新出資料に期待したい。
[1] 松山光伸『実証・日本の手品史』東京堂出版、2010年、河合勝、長野栄俊、森下洋平『近代日本奇術文化史』東京堂出版、2020年
[2] 河合勝、長野栄俊、森下洋平『近代日本奇術文化史』東京堂出版、2020年